<イスラエルの概要>


  • イスラエルの名
     アブラハムの子、イサク。イサクの子、ヤコブ。このヤコブに、神はイスラエルという名を与えられたのが最初に登場するイスラエルの名である。
     後に、ヤコブであるイスラエルの子孫をも、総称してイスラエルと呼ぶ。またサウルからはじまり、ダビデ・ソロモンと続く、彼らの建国した統一イスラエル王国を指してイスラエルともいう。ソロモンの死後、分裂し北の王国はイスラエルの名を継承するが、南の王国は中心となった部族の名によってユダ王国と呼ばれるようになった。
     つまり、イスラエルとは人、民族、国の名として称される。

  • イスラエルの十二支族
     イスラエルことヤコブには妻レアとの子、ルベン・シメオン・レビ・ユダ・イッサカル・ゼブルン。妻ビルハとの子、ダン・ナフタリ。妻ジルパとの子、ガド・アセル。妻ラケルとの子、ヨセフ・ベニヤミンの12人の子があり、この子孫を称して、十二支族という。
     しかし、神の取り決めによって、レビは祭司としての職が与えられたので、受け継ぎの地は与えられず、それぞれの部族に散って主の業自体が受け継ぎとなった。また、ルベンは、父の妻(ビルハ)と寝ることによって罪を犯し、長子としての権利を失い、次のヨセフに権利が移り、ヨセフの子のマナセ、エフライムはヤコブの孫ではなく、子として継がれたので、ヨセフは二つ分の受け継ぎが与えられた。
     十二支族はしばしばこの受け継ぎで見られ、レビを除いて、ヨセフの分をマナセ、エフライムとして数えることが多い。

  • ユダヤ人とは
    • 血統上のユダヤ人
       ユダヤ人と呼ばれる人たちは、民族的に言えば、イスラエルの血統のうちの、ユダの血統に属する人々を指す。それはユダ王国に住んでいたのはユダの民が多かったことによるが、それ以外にはユダ王国に比較的多かった、ベニヤミン、そしてレビ、また少数の他の支族に属する者が含まれてもいる。
    • 広い定義でのユダヤ人
        血統的なユダヤ人以外にも、ユダヤ教に改宗した血統的には異邦人であってもユダヤ人となる。また、子孫はたとえ無神論者であってもユダヤ人となる。
       つまり、血統的なユダヤ人と宗教的に継がれた養子としてのユダヤ人がいるということになる。
       そのようなユダヤ人は、全体のどれぐらいの割合なのだろうか? それが驚いたことに全体の9割ほどが、その養子に該当するのである。
       これは一体どうしたことなのだろうか?
    • セム・ハム・ヤペテ
       聖書ではノアの洪水のとき、箱船にはノアとその妻、子供のセム、ハム、ヤペテとそれぞれの妻の計8名が乗り込んだ。
       洪水の後、地上には彼らだけであった。
       ノアの子供たちは同族であったが、セム・ハム・ヤペテのそれぞれの妻によって、その子供たちから民族は大きく3つの流れに分かれた。
       当初の地に分かれて住んだ区分から、セムの子孫は主にアジアに分布するモンゴロイドであり、外見上は黄色人種ということになる。
       ハムの子孫はアフリカに主に分布し、黒人種ということになる。
       ヤペテの子孫は主にヨーロッパとなり、白人種となる。
       これらの人種が入り交じって分布していたのが、中東地域である。これは箱船からそれぞれの人種が分かれていったことに対しての信憑性を持たせる、ひとつの事実である。
       そして、ある出来事からその流れには神の意図が 生じた。

       さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の顔を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った。
      「カナンはのろわれよ、彼はしもべのしもべとなって、 その兄弟たちに仕える」。
       また言った。
      「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。
       神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に住まわせられるように。
       カナンはそのしもべとなれ。」
      (創世記9:20-27)
      聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

       詳細ないきさつは、聖書ではこれだけの記述なので、わからない部分が多い。
       確かなことは、ハムが父が裸で寝ているのを見て笑ってやろうと、他の兄弟を呼んだという単純なものではないことである。
       この聖文に謎掛けがあると仮定して、ぶどう畑にあるぶどうの木、ぶどう酒というアイテムは、主なる神につながるという意味でイエス・キリストのぶどうの木のたとえを連想するし、ぶどう酒はキリストの血を象徴する。それに酔うとは、ノアが預言者であることから、神の直接の導きをも連想できる。そのような経験の直後は大きな脱力感が生じることがある。となると、天幕というのも幕屋を連想する。
       すると、ノアはただの裸だったのかという疑問が生じる。
       ヒントとなるのは人類にとって始祖であり、初代の預言者でもあるアダムに着せられた皮衣(創世記3:21)である。わざわざ神がつくってわたしたものであるから、ただの衣服ではないことを察することができる。端的にいえば、下着に近い聖衣だろうと思われる。
       これに類するものをノアは身につけていたのではないだろうか?
       そして、ハムはそれに、不正な形で関与したということになる。
       なぜ、のろいはハムではなく息子のカナンに及ぼされたのか、ハムの子は他にもいたのになぜカナンなのか、まだこれだけでは解明することには無理があるようだ。
       ただ、妻エジプタス、子のカナンが一枚かんだ、もくろみがあったのかも知れないが、推測の域を出ない。

       このノアの預言は世界史の中で良くも悪くも成就している。
       カナンの子孫は奴隷として、ヤペテの子孫に人間扱いされないほどの仕打ちを受ける。
       そして「セムの神」という言い方で、ノアの預言者としての血脈は彼に受け継がれることがわかる。その子孫には、アブラハム、イサクなどのヘブル人、イサクの子ヤコブことイスラエルからイスラエルの十二支族が生じ、ダビデ、そして時の絶頂に生まれた、イエス・キリストへとつながっていく。
       ユダヤ人とは血筋で言えば、セムの子孫であり、その中でもイスラエルの血統上であり、外見上はモンゴロイドである。それ以外は異邦人から継がれた養子ということになるのである。
       ヤペテはセムに次いでというより、匹敵するほど大いなるものとなり、セムの天幕に住みながら主人を押し出すほどの勢いである。
       セムの天幕とは、世界に存在する神の真理そのもの、もしくは真理の体系の一部のことである。神の真理は預言者によりもたらされ預言者はセムより生まれる。その知識はセムの人々により世界中に運ばれ、時には変質し、失われたりしながらも、一部にその真理を保っていたりする。これは、世界中の宗教体系はセムによりもたらされ、その天幕にヤペテの子孫が住むことになるという預言である。
       これは、キリスト教を世界史で見ると、よくわかる事実である。
       また、思いがけずユダヤ教の体系の下にもヤペテの子孫がセムの子孫を追いのけようとするほどに満ちている。
       我々がよく知る、大部分のユダヤ人は白人であり、即ちヤペテの子孫であり養子なのである。そして、目立たず、まるでアラブ人のようなユダヤ人こそがセムの子孫、ヘブル人に該当する血統上のユダヤ人なのである。
       預言通りとはいえ、全体の9割にもなろうとするヤペテ系のユダヤ人とは一体何者なのだろうか?
       そこには、歴史上のトリックともいえる物語が潜んでいる。


  • アシュケナージ・ユダヤ人
    • 第十三支族(The Thirteenth Tribe)
       この書物は、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)という著名な文筆家が、自らの先祖の物語を数々の資料からまとめた、ドキュメント的な内容である。
       その大・中見出しを、抜粋すると、以下である。

      第一部 カザール王国の興隆と没落
       1 南ロシア草原における興隆(5世紀〜)
       2 ユダヤ教への改宗(8世紀)
       3 ロシアの台頭による衰退(9世紀)
       4 首都陥落にひき続く没落(10世紀)
      第二部 カザール・ユダヤの歴史的遺産
       5 カザールの故郷を離れて東ヨーロッパへ
       6 カザール・ユダヤ人と「真のユダヤ人」
       7 交錯する流れを貫くカザールの血
       8 ユダヤ人神話とその人種的多様性

       これだけで、歴史的な大きな流れはわかると思うが、別ページに年表地図があるので参照して欲しい。
       そして、結論だけ先に述べると、カザール人の先祖はヤペテであり、外見上は白人となる。われわれ、特に日本人は、ユダヤ人というと白人というイメージがすりこまれているが、それほどにユダヤ人に占める割合は多く、その持つ影響力も大きい。明らかに血統上のユダヤ人は白人ではなく、モンゴロイドに当たるセム系であり、歴史的にユダヤ教にそれほど大量に改宗した痕跡は他にはないことから、彼らはカザール人の末裔であると結論づけられるのである。
       そして彼らのことは、アシュケナージ・ユダヤ人と呼ばれている。
       また東欧系のユダヤ人という言い方もする。
    • イディッシュ語
       東欧系のユダヤ人の特徴は、ヤペテ系の外見以外に、イディッシュ語を用いる(た?<-過去形)ところにある。
       イディッシュ語は、ヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語等の混成語でヘブライ文字で表記される。現在は、ユダヤ教の礼拝に用いられているが、日常ではホロコースト以来、一部の超保守的な少数の間で残っているだけということである。
       西欧系(もしくは、ヘブル系・スファラディー系)は、スペイン、フランス、ドイツに分布していたことから、イディッシュ語に多量に含まれる中世ドイツ語を根拠に、外見上は異なっていても(インド人とイギリス人のように)、民族としては一つで矛盾しないと主張されてきたし、現在もそうである。
       イディッシュ語は奇妙な言語と捉えられてまともに研究されてこなかった経緯があり、その根拠を確かめる材料がなかった。が、最近になって、学問的に注目され研究が進むとそのような主張ができなくなってきた。
       カザール王国は、国際的な商売を行って国を維持していたし、離散してからも民は同じ営みをそれぞれの地で続け、その点、血統上のユダヤ人と特徴を同じくする。当然、彼らの言語には、それらの住む地域、商売上の相手の地の言語が入り込むことになる。ドイツ語もそうであった。
       しかし、最近の研究では、フランスと国境を接する地域からの言語要素が見られないという結論が出ている。
       つまり、イディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツは除外されるということであり、西欧から流入してきたのではない根拠となることから、西欧系と同じ血族としてのつながりの糸は切れているのである。

  • 真のユダヤ人とは
     聖書にもイスラエルに継がれる血統的に異邦人に属する者がいた記述がある。神が許されるのだから、我々がどうこう言うべきではない。彼らは養子として継がれたイスラエルの民とその子孫として、血族同様に尊重されるべきである。
     だから、アシュケナージ・ユダヤ人は、偽ユダヤ人などと、軽々しく口にしてはいけない。
     だが、血統はどうでもいいのだろうか? どうでもいいわけはない。というのは、ヤコブの血がもたらす資質の中に神の民といわれる由縁があり、その点では分けて論じられるべきだからである。
     またこのHPは、ユダヤ教について、関連は出てくるが、あくまでも本論はキリストについてであり、福音についてである。
     ヤコブの資質を持つ者は、よい羊飼の声にその血が騒ぐ。

    わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。(ヨハネ10:14)
    聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

    わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。(ヨハネ10:27)
    聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955  

     その意味で、イエスを十字架につけた彼らのヒステリックな行動は、血が騒いだとはいえ、その行動は本来とは逆に走ることとなり、よい羊飼がありながら、良い羊ではなかった。彼らは、神の子を知る資質がありながら、ヤコブの子である資格は失ったのである。 血統の価値はあくまでも、資格を保った上での価値である。血統的には異邦人であっても、その資格を行使できる者の方が勝る。それが、資格を失ったユダヤ人から異邦人へ福音が伝えられ、異邦人の祝福される時代へと移ることとなった。
     異邦人は、キリストによってイスラエルに継がれ、真のユダヤ人となるのである。
     こうして先の者(ユダヤ人)が後になり、後の者(異邦人)が先となる。

  • されど、偽ユダヤ人
     養子として継がれた民はもはや、異邦人ではない。偽ユダヤ人と呼ぶことは許されない。
     ただし、それはふさわしい実を結ぶならばという条件が伴う。
     日本人にとって、ユダヤ人とは白人種だと認識している人々が圧倒的に多い。前出のケストラーの例でも、アシュケナージ・ユダヤ人であっても、知らない者がいるということである。正しい知識が伝わっていない。つまりは、その知識を扱うこと自体が、タブーに属するものなのだ。
     しかし、それが何故にタブーなのか?
     ユダヤ人には強烈な選民意識が伴う。多くの艱難に耐えてきた歴史があるから、そうして差別化しプライドを保ってきたことも理解できる。しかし、大多数のユダヤ人にとって異邦人を見下すことには、矛盾がある。彼らはもともと異邦人から継がれた枝だからである。では、血族ならばその選民意識は当然なのかと問えば、そうではない。
     ユダヤ人(イスラエル人)は、神に選ばれた民である。これは間違いではない。
     だが、他の民にも救いをもたらす、神の器として選ばれたのである。高慢となり他の民を見下すためではない。キリストの生涯で異邦人に接しておられた態度には、媚びなどは微塵もなかったが、威厳を保ちつつも、決して見下したりせず、同胞として接しておられた。神にあっては、男も女も、民族の違いもなく同じく神の子である。
     奴隷に対しても、律法には人としての尊厳を守る条項があることからも伺えることである。
     キリストがパリサイ人達を非難したのも、タルムード的なものに依って、神に従うとしながら神をないがしろにしている態度にあった。
     無知ならともかくも、知りながら自らを選民として、神の御心に沿わないものを利己的な動機で追求するならば、血統に関わらず、それは偽ユダヤ人である。それがアシュケナージ・ユダヤ人であれば、ユダヤ人の名の皮を被ったに過ぎない。
     以上の理由から、自らの出所をタブーにしていく者が居ることには、不審さを感じ取ることとなる。
     ユダヤ教だけでなく、キリスト教に改宗した異邦人も、イスラエルに継がれるが、パウロによって改宗したヤペテ系の者達は養子であることを恥じて隠すことはなかったろう。ユダヤ教でも同じく、恥ずべきことではないはずである。
     もしもユダヤ人を名乗って闇の者となり神に反する行為を神の名によって行うならば、その者達には、神の名によって与えられる恵みは隠されることとなるだろう。

    聖書にはこうある、

    しかし主なる神は言われる、その日、すなわちゴグがイスラエルの地に攻め入る日に、わが怒りは現れる。(エゼキエル38:18)
    聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

     これは、キリストの再臨の前の大戦争(ハルマゲドン)についての預言の一部である。
    ゴグとは、マゴグの王と言われ、マゴグとは黒海近くの地と、その地に住む民の名である。
     そこは、アシュケナージ・ユダヤ人の発祥の地と重なる!
    そうであれば、ゴグは、偽ユダヤ人の長ということになる。そして、マゴグが意味することによってそれに従う者がいるということである。
     世にある「ユダヤ人陰謀史観」の多くは疑心暗鬼的で、まともに汲みすることができないものがほとんどであるが、排除しきれないのもあることを指摘しておきたい。

  • イスラエルの散乱(ディアスポラ)
     イスラエル王国は紀元前721年頃に、アッシリアによって滅ぼされ囚われて行った後、アッシリアが滅亡し解放されても、その民は帰還せず、北方へ向かい消息を絶った。それは失われた十支族として大きな謎となっている。
     ユダ王国の方は、紀元前609年頃、バビロンに捕囚として連行された後、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、解放され、帰還する者もいたが、そのまま住み着く者や、いなくなるものも多数いた。また、バビロンによって滅ぼされる前に、神の方法により脱出した一団も存在する。
     イエス・キリストの死後、ユダヤ人の反乱により、ローマに滅ぼされ、世界中に散らされ、イスラエルの名に関係する国は近年になるまで存在しなくなる。
     また明らかに記録された散乱するような出来事でなくとも、イスラエルの散乱の機会は数多く、エジプトに寄留しモーセがエジプトから脱出するおりに、脱落していなくなった者たちもいると思われる。

  • 散らされるということ
     イスラエル人は、世界に散らされることで、世界中の民を救うという、神の役目を担う民族としての存在意味がある。ほとんどの場合、そこでは、自らがその血統に属するとは気づくことなく生きているはずである。
     特に、イスラエルの長子となったヨセフの子孫はその祝福に顕著に現れている。

    ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木、その枝は、かきねを越えるであろう。(創世記49:22)
    聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

     枝とはその血統であり、かきねとは、海洋や山脈であり、それまでの囲いからひろがっていく様を象徴している。それは特にエフライムを通して広がった。現在、ヨセフの子孫のある者たちは、その資質により目覚め、神に導かれ資格を得て、イスラエルの回復の業に携わっている。
     また、異邦人に保護されて異邦の地で生きると聖典にはある(イザヤ49:23)が、純血種のイスラエル人は殆どいないと思われ、イスラエル人の血の中には、異邦人の血が同居していると見るのが正しいであろう。事実上、主の民であることは忘れ果ててそのままでは、神の役には立たない。オリーブの木で例えるならば、野生の根といったところだろうか。しかし、イスラエルの血統にある資質は受け継いでいる。そこに大きな意味がある。
     あるまとまった集団の民族が、ある民族の中に入ると、大きく生活習慣などに影響を及ぼす。それが多くの民の中に、ユダヤ同祖論がある理由となる。
     この日本はどうだろうか? この国ほどユダヤ同祖論が活発な国はまれではないだろうか?

  • 失われた十支族の行方についての説
    • その1
       北の地へと消えた十支族の大集団はどうなったのだろうか?
       飛鳥昭雄氏は著書の中で大胆な主張を展開している。
       北の地「アルツァレト」は地球の中心部にあるというのである。これはSFなどでありふれた、地球空洞説などではない。地球は中心部まで物質で満たされていて、人が住むような空間は存在しない。しかし、ある条件を満たせば、地球の中心部の異なる次元に空間を存在させ、人が快適に生活できるような環境ができるというのである。
       これは、地球という惑星の持つ巨大な質量によって生じた磁場が集中する地球の中心部にはプラズマ球が発生しそこには異次元空間が発生していて、磁力線が束ねられた状態で出ていく場、もぐりこむ場である、北極、南極には、同じくプラズマに包まれた状態であれば、出入りすることのできる「穴」が存在するということである。
       プラズマとは、物質の持つエネルギーが高まると、固体は液体に、液体から気体に状態が変化していくが、もっと高まると、原子構造はバラバラとなり、この状態をプラズマ状態という。これは、物質というよりも「光」そのものといってよい状態である。
       物質にいろいろなバリエーションがあるように、光にも波長などによってバリエーションがあり、よってプラズマにも様々なバリエーションがある。
       人の霊もこの一種のプラズマであり、「光」で出来ている。現在の我々の肉体は、霊(光)によって生かされているものの、血という間接的な形で生かされているため、この肉体が、輝くわけではないし、この肉体には死という限界がある。
       また、神は肉体を持っているが、復活体と呼ばれ、霊が直接肉体を生かしているため、光り輝く状態となり、時間軸に左右されず、不死不滅の状態となっている。
       さて、プラズマ化された肉体は、同じくプラズマ化された空間に出入りすることが可能であり、滞在することができる。
       それには、そういったものに制約されない霊の状態や、復活体であればよいが、現在の肉体の組織を変化させることで、同じように異次元空間に出入りするようにできる。これを「身を変える」という。
       つまり、失われた十支族は、預言者、つまり神に導かれ、北極を目指しそこにある亜空間への入り口から、身を変えられ、地球の内部へと移住したのである。
       そして彼らは神に導かれ、独自の文化を育てながら、時を待っている。それは、神が地上へ帰還命令を出すときまでである。
       UFOは、プラズマを動力とする、彼らの乗り物であり、彼らの技術の一部となっている。
       この内容は、飛鳥昭雄著のUFO2シリーズ(KKベストセラーズ)等を全面的に参考にしています。
    • その2
       しかし、北極の彼方の、異次元空間に移動したのが全てかというと、そうでもない。
       そこまで到達できず、脱落して中央アジアなどに住み着いたのも多いであろうから、そういった場所で十支族の痕跡が見いだせることもあるであろう。
       だが、それだけでなく計画したうえで、狙い澄まして配置した事例もあったのである。十支族の地上残留部隊である。
       また紀元後に、ユダヤ人原始キリスト教徒の渡来もあり、それが秦氏となったため、ユダ、ベニヤミンの合流により、十支族だけでなく、全支族が揃うこととなった。しかも、秦(はた)氏によって、福音がもたらされた(「秦氏について」参照=後日公開予定)。終わりの日のイスラエルの集合の雛形をなしている。もちろん、イエス・キリストの再降臨、イスラエルの集合に備えたものである。
       それが日本だというのである。
       数々の預言者によってイスラエルの全支族の一部が導かれ、日本に入り、最後は聖徳太子という預言者のもとに、藤原家、秦氏等によってによって総仕上げともいうべき、国固めがなされてきた。特筆すべきは、秦氏の族長、太秦(うずまさ)の下にいる秦一族の膨大な人材、財力であった。
       しかも、当のイスラエルの血族である我々が、それを忘れ去ってしまうほどに封印し隠してしまうのは、それだけ重要な理由があってである。それは恐らく私たちが生きている間におきる、重大な出来事に備えるためであり、そのときは封印が世界に向け解かれ、我々日本人はどういう存在なのか、知ることになる。
       しかし、厳重に隠した秘密も、聖書と同じく、重要な部分はこの国の至る所に象徴として埋め込まれている。これはある資質を持った者に対して、封印を解く鍵を提示するためである。それは、資質、資格に加えて使命を神より与えられた者、預言者である。

  • 漢字への福音の封印
     漢字はもともと象形文字として、ある形に対応する、ひとつの文字を絵記号としてつくられた、単純なむすびつきによってできたものである。
     それが、組み合わせることによって意味の広がりを持たせるようになった。
     それを盛んに行ったのが秦の始皇帝の時代だということで、気になる存在が、徐福である。彼はイスラエルの預言者としての可能性も指摘されており、しかも徐福とその一団が日本に不老不死を求めてやってきたと言う伝説もあり、秦(はた)と秦(シン)から、秦氏の先祖とも言われている。さすがに年代が大きく違うこともあって、それはない。が、そこに隠された歴史がありそうで無視は出来ない。何故ならば、この国に封印された奥義、命の木こそ、不老不死の正体となるからである。そして、彼はこの国に、預言者として、彼自身、ブレーン、その子々孫々を使って何かを仕掛けた可能性が高い。未だ調査中! だれか教えて!
     よって、中国においての漢字の組み合わせ、国字の成立に「福音」のエッセンスが含まれるのは、秦の徐福、秦氏のことも併せて、十分に考えてよい。
     「破字法」といって、漢字を組み合わせて暗号にしたりする技術があって、それが漢字の用法のバリエーションを増やしてきた経緯があるようである。漢字にはもともとそんな用法があったのである。隠すには最適の器である。
     この場合、「福音の知識(奥義)」を鍵にして、隠すのであるから、鍵を知らない(羊でない)人にはたとえ説明したところで、ただのこじつけである。鍵を知っている人にとっても、こじつけに違いはない。しかし、そこには意味が存在する。
     ここには、羊でない者には徹底的にわからないように隠すが、羊には、なによりも明確にわかるようにする、意図が感じられる。じつはイスラエルの民にはそういう方法は、珍しくはない。当の聖書がそういうふうに封印されているからである。
     神の封印は、神の方法でのみ解ける。その方法とは・・・???
     神によってのみ与えられるインスピレーション。聖書では聖霊の賜物と呼ばれている。

  • イスラエルの集合
     聖書にある予言として、イスラエルはイエス・キリストの再臨の前に、集められる。
     それは、世界中に散っている神の知識の断片がつなぎあわされ、明らかになっていく過程でもある。信仰において「ひとつ」となることが、霊的な集合となる。
     そして、物的な集合として、霊的な集合から、各支族の記録が明らかになり、聖書との整合性を示すことで、結び合わされる。また、そういう人々が集まる「シオン」が築かれる可能性もある。私の予感では、その集合は迫害する者によって促される(ゲットーのようなもの)のではないかと感じている。

    主なる神はこう言われる、私がイスラエルの家の者を、その散らされたもろもろの民の中から集め、もろもろの国民の目の前で、彼らにわたしの聖なることをあらわす時、彼らはわたしが、わがしもべヤコブに与えた地に住むようになる。(エゼキエル28:25)
    聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

     ユダヤ人は、最後まで頑なさを持ち、再降臨のとき、キリストを見、手足の釘を見、触れ、かつて十字架につけたイエス・キリストこそが、メシアであったことを知る。ここにおいて、イスラエルの集合が完成するのである。