<部首の解説>

人数や家畜の数を数える単位として使われる。
また、口をもつことから、生き物を象徴する。

<字の解説>


部首の解説にあるため省略

四角の板に穴「口」を空け、突き抜けることで同一、一つになるということで同じとなる。
しかし、「冂」+「一」+「口」と分解すれば、「一」は、はじめ、つまり「キリスト(神)」、「口」を人、それらを「冂」で覆うことをにより、隠された、又は隔離された、神の方法であれば、聖別された場所で会うことを意味する。そこでは神にかかわる奥義がさずけられ、ある範囲では、神と通じることで、同一となるのである。
つまり、預言者として召され、神と会う情景を象徴するのである。
この意味は、「木偏」とあわせて「」となって、確定する。

もともとは、上部の中心柱は突き抜けていて、牛に口(わく)で、枠に縛る(いましめ)という意味で、「告げる」という意味となる。
 また、牛の象形としては左肩の「ノ」が余計に見えるが、ここで「ノ」を手と解すると、牛に置かれた手ということになる。これは、主に犠牲を捧げるときの律法となる。

彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。(レビ記1:4)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

下部の口は人を表し、その人のあがないとなる。
手を置くことは、身代わりの宣言であり、その人に成り代わって牛が犠牲となるのである。
ただ、これらは象徴であって、イエス・キリストの贖いを予告する雛形である。
告げるという意味としては神聖な意味を含むこととなる。

現在の牛として突き抜けない形は、「ノ」+「土」であり、土の口と解する。ここで口は個々の生き物のことである。土で生けるものは造られたのである。

主なる神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。(創世記2:7)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

「告げる」という意図でときおり、「吹き込む」というのは、ここに語源があると考えられる。

上部の「人」+「一」で、集める。
下部は、「口=目上の人または神」+「かしずいた人」となる。
つまり、集めてかしずいた人に、神もしくは目上の者が命じる。という意味になる。
この場合なら、上部の人とは神であり、ひとつに集められたのは、我々である。

前世において我々は神とともにいた。そして、神の前での役割を申し渡された。
それは全ての者に共通するものであったり、個々に果たすべきことを命じられたかもしれない。
それらを命じられ、役割を担って、この世に生を受けたのである。

生命または命を「いのち」と読み、現世での生を指すが、それは使命や役割をはたすために与えられたものであることを指し示している。
それは、すべて神の業をおし進めることと密接に関連している。

下部を叩とすると、もうひとつ意味があらわれる。叩には「やっつける」という意味が含まれている。天においてルシフェルと3分の1の霊は神に背いて戦いを挑んできた。
それを阻止することを神から命じられ、ここに前世における天上の大戦争がおきたのである。
反乱軍は敗北しそれらの者を神は地上に投げ落とすように命じられたのである。

この戦いは場所を変えてまだ続いている。
この現世においては、自由意志による選択の自由を誤らせようと、かつて投げ落とされ、悪魔となった者たちが誘いをかけている。毎日の我々の試しはそこから来ており、この静かな戦争に多くの者が知らないうちに負けてしまっている。

地上での神の業の大部分はこの戦いに勝利し、救いを全うすることにある。

そこで決定的なのがイエス・キリストの存在である。自由意志による選択を誤らない者などいない。ただイエス・キリストのみが、その選択を誤ることなく、罪のない者として天父の前で、我々の罪の代価を支払い、購い主となられた。
それは、かつて天上において天父により命じられたことであり、それによってイエスは全人類の購い主、つまりキリストとなられたのである。

その命に従い、全人類の犠牲として自らの命を差し出された。

また、イエス・キリストにこの世で聖約した者は、霊的に主の前に集められ、主の戒めに従い生きていくことを命じられる。この者たちは前世で召されて再び地上で召され、働きによって召しを全うするように命じられるが、これらの者は、イエス・キリストの分身であり、同じ働きをする。

命の意味、そして価値とは自らの使命を知り、行うことにある。


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