<部首の解説>

立木の象形でできているが、「十字」と「人」の重なった形にとらえると、十字架(というより杭であるが)にかけられた人となり、イエス・キリストを象徴することとなる。これは贖いを象徴するので、全体で、永遠の生命に導く「生命の木」を象徴する。
また組み合わせる場合は、贖いの計画に関わるチームとしての、天父・御子・聖霊を表すこともある。(解説「神会」参照)

<字の解説>


部首の解説にあるため省略

木の根の太い部分に印を付けた指事文字。

木は神をあらわしている。生命の木のことでもある。
そこから救いを受ける基は、神を知ること。それは天父からつかわされた御子イエス・キリストを知ることである。

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。(ヨハネ17:3)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

そこに最高の知識・真理(本当のこと)がある。

主を恐れることは知識のはじめである。(箴言1:7)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

それには、最良の書「聖典」から神の御言葉を得ることからはじまる。
本=書物(BOOK)とは、聖書を指す。また、神の定められた他のものをも含む。

また、木は十字架につけられた人、キリストを示している。
その下につけられた「一」は小さな十字架が重なっているようにも見える。
聖典からキリストへの信仰を持った者は、キリストに従いたいと願うようになる。
自分の十字架を背負ってキリストの後にしたがっていくのである。

「大」+「十」と分解すると、大は人であり、十は十字架となり、やはりキリストを表す。


寸のスンの音読みから村のソンという読みとなっている。解字としては人々が束の間(ちょっとの意味がにはある)の休息をとった木のある場所といった意味がある。
この木を生命の木(イエス・キリスト)とすれば、イエス・キリストの語った一場面を思い浮かべることになる。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28〜30)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

ここでいう休みとは、永遠の生命をうけたときの安息というよりも、弟子達が遭遇する現世での迫害やこの世のわずらいに対する、束の間の休息のことであると思われる。しかし、その延長にこそ、永遠の生命という安息があることは言うまでもない。また、御心に適う、面々との触れあいもその休息と結びつくことから、主イエスが認められる集まりには、そこにおられるともあるので、

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

まさに、生命の木(イエス・キリスト)のもとでの休息がここにある。


」から変化したもので、もともとは麦の穂が実って垂れている形からきた象形である。
分解すると右図のようになり、十字架(というよりも、上の梁が短い分、史実に近い「杭」に印象が近くなる)にかけられたキリストを模した形に似てくる。そこにが加わるとキリストを二重に象徴する形となる。
また未来という字が含まれることから、再降臨を意味すると思われる。が、それだけではないかもしれない。
一方、「来」は「來」の麦よりも、ことさら「米」の字を組み込んだ印象がある。
米の「四方八方」という形から、東西南北と北東、北西、南東、東南の方向性を示すと捉えると、「一」の印を上部に加えることは「北方」を示すこととなる。北方からの何かをせき止めているようにも見える。しかし総合すると、それは北方からやって来るということであり、しかも、もとの「麦」の意味から、それは神に導かれてやって来るのである。そして来に含まれる「未」から、この字が組まれた当時、まだ起こらず、「未来」に起こる(来る)ことであり、聖書で言う未来は、末日における出来事を示すことがほとんどであるため、ここに聖書から該当することは、これから成就する、イスラエルの帰還を示すことになる。彼らは、北へ向かって行ったまま忽然と消え、予言によると、神の導きにより、北方より帰還するのである。
これは、神イエス・キリストに導かれて来るのであるから、その集合地日本に再降臨に先立って来られる可能性を指摘しておきたい。もちろんこれは再降臨に先立ってのことである。日本での出来事は世界での出来事の予兆ともなっている可能性から、なんらかの動きがあると思われる。再降臨を待たずとも、そういった出来事は過去に数あったことなので、驚くには当たらない。
この集合はキリストの贖いにより、時を隔てておこる出来事にほかならない。
というのは集合の本質は、キリストのもとに、つまり福音を通してひとつになること、すなわち霊的な集合なのである。根はそこにあり物理的が集合がある。
つまり、失われたイスラエルの十支族のことも象徴しているのである。
も参照すること。

」が天皇家を意味することから、命の木である、絶対神に寄り添う形になり、神と人とのこのような関わりは、神と預言者との関係を示唆する。
また、常緑の松は、長寿を意味し、めでたいこととして使われるが、永遠の生命に導く命の木の属性を示している。
イエス・キリストは「初めであり終わり」であり、日の老いたものなのである。
天皇も日本国を世界と見立てれば、日の老いたものの象徴となる。

もともとは、心棒を通して、両端をしばった袋のかたちからきている。嚢(ノウ:ふくろ)の上部と同じ由来である。

楷書等への変化で、「木」と「日」と合わさったような形に洗練されていった。
「日」は太陽神を表している。「木」は「生命の木」である。それは人の形でもある。その人とは、太陽神でもあるイエス・キリストのことである。

漢字を生み出した民は「西方の民」であり、東方へ移動し中国大陸へ移住してきた。彼らは、大洪水が終わってから遠くない時代のノアの息子である、セムの子孫であった。恐らくはセム存命中に分かれたと考えられる。神の民は、イスラエルの散乱以前にもあったのである。そして、彼らは預言者に導かれた。預言者を導いたのはヤハウエ(エホバ)であり、イエス・キリストのことである。

地球規模で東西という場合、起点が存在する。恐らくは、サレムとその周辺(後のエルサレムであるが、ナザレ、ベツレヘムも地球規模の視点から含めることが妥当と考える)

セムの初期の民は、漢字の原型をもたらし、後にやってくる民によってどんどん洗練されていく。そして構造化され、よりシステマチックになっていく。すると、どんな組み合わせをしたとしても、神的な意味を持つことになる。

東の端にあるのは、「日の出ずる処」である、この日本である。
この国に漢字がもたらされたとき、聖徳太子とその配下は、漢字に決定的な価値を与えている。国字としての漢字は、最終形態であり、イエス・キリストを知る預言者としての証を込めた。

東には、日本独自の用い方として「あずま」という読むことがある。また、狭くてむさくるしいところですがの意で、「あずましい」と使うこともある。
また、東屋とは庭園にある小さく、狭い小屋のことである。
世界の東の端、そして狭い国土とすれば、東屋とは、我が国土のメタファである。また吾妻(あずま)とも言うが、そこにも聖書的な意味を込めてみると意味が広がりをもって理解できてくる。

するとこの国にイエス・キリストが濃くかかわっていることになる。神国日本、そこには終わりの時のために備えられた秘密が存在する。

また、起点であるサレムから西へたどって神の軌跡を追っても、行き着く先にあるのはこの国土であることを別に示すことにする。


上部の「ツ」は、省略形であり、火が二つ並んだ形であった。冖は覆うという意味があり、木全体をとりまいている篝火という形になるが、異体字では草冠となることもあり、花が取り巻いているような華やかさや、派手さをあらわしている。

木は絶対神であり、神の発する栄光を表す。
その栄光は、神の位をあらわすが、それだけではない。
神の栄光は、たとえれば太陽であり、それは火のようであり、プロミネンスは花が咲き乱れるようにも見える。
全ての光は神のもとより発している。この太陽の光も神の栄光の一部が形を変えたものであり、物質世界のすべてもまたそうである。神の栄光によって私たちは生かされている。

現在の栄という字は、全体で光を全方位に発している形に見える。

その栄光の中心には生命の木があり、その真の姿は絶対神である天父そのものなのである。


主の木と解することができ、十字架から贖いを連想するが、それだけでなく、エデンの園にあった、生命の木を象徴するものであり、素直に受け取れば、主イエスのことを象徴していることになるが、天父(エローヒム)のことでもあるといえる。
神仏を数える単位として「柱」を使うのは、イスラエル人の特徴であり、その習慣が日本にもあることは、民族の出生との関連が伺える。また「人柱」といったような使い方によって、贖いの概念が生じているのも、興味深い。

桐紋は、菊紋とともに天皇家の紋章であった。
これは、中国の故事で聖天子があらわれたとき、鳳凰がとまったのが、桐であったことにからくる。
日本では聖天子は天皇のこと、鳳凰とは、神武天皇の東征のおり、先導した、「八咫烏(やたがらす)」、神武天皇の弓の先にとまった、金の光り輝く鵄(とび)に関連が出てくる。八咫烏は、おそらくは、人であるが「」が「YAWA(ヤハウエ)」に結びつく以上、神と深く関わりがあると考えられ、そういう立場の助言者、もしくは神に導かれた状態の神武天皇自身を示すと思われる。
神の力がはっきりわかる形で示されたのが、金の鵄であり、イエス・キリストの出現すら暗示している。東征にイエス・キリストの関与があったことは確実と思われる。
命の木(神)と同化するほどの意味を持つ象徴であることから「桐」は家紋(神会、命の木を象徴する意匠である。)をも含めて、天皇家の秘密を指し示している。

もともとは麦の穂が実ってたれた形からきた象形であるので、麦を意味する字である。
十字架(杭)に重なる「人」として木があることから、キリストを象徴し、左右の2つの「人」は、その時の情景を示している。

さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。(ルカ23:32〜33)
     (中略)
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか、それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23:39〜43)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

ここで、犯罪人の位置関係についてふれていないが、先の犯罪人は、キリストから見て左側、後の犯罪人は右側となる。再降臨のおりに、悪人を滅ぼすとき、最後の裁きのとき、善人、悪人を右と左にわけるといわれたことを象徴する。

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。(ルカ23:46)
聖書:(c)日本聖書協会    Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

麦の穂が垂れた瞬間である! それは実りの完成、贖いの使命の完成を意味する。
そのとき、善悪を左右に分ける意味も、イエス・キリストこそが贖い主、裁き主であることを強く示す形となっている。

また、聖書的な意味としては、これから(将来)やってくるという意味があることから、イエスの毒麦のたとえから、イエス・キリストの再臨と関連する意味を持つ。


木が三つあることで、生命の木の奥義を示すことになる。天父・御子・聖霊をそれぞれの木が象徴し、神会を表すことになる。(解説「神会」参照)

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